道路標示の誕生 北海道における道路標示の歴史 道路標示の種類と変遷 路面標示の歴史
北海道における道路標示の歴史


 昭和17年6月に開かれた第2回北海道庁技術競技会の「小樽旭川間国道改良計画に於いて」の中に道路中央線について、つぎのように述べられている。「中央1.0m未満の部分には着色コンクリートが施工されこの異色分離帯によって高速車道に方向別的の観念を与えて交通の混乱を防ぐとともに相交換する高速車相互の安全間を高めようとするもので、之が国道の基調として小樽旭川間を一貫するものである」とある。
これが記録に残っている北海道における最初の区画線の考え方ではないだろうか。
その後、昭和28年に完成した札幌・千歳間道路において道路中心鋲が設けられ、全線に渡って白色の実践が道路中心に施工されている。
ペイントマーカー車
パイントマーカー車

 昭和32年北海道開発局は、手押しのロードラインマーカー(高千穂製)を一台購入し、翌33年になると3台、34年には7台、35~41年にかけて45台を購入、直営で、中心線などを施工した。
昭和36年ころから舗装道路延長に伴い、部分的な請負施工となっていた。


北海道開発局では、昭和39年(1964)に初めて区画線を請負工事で発注した。その時の実績が日本ロードマーキングの10.800千円であった。その後40年には日本ロードマーキングと北海道ライナーで20.830千円、41年は1社、42年3社、43年5社、45年には6社となり、施工費も117.300千円と1億円台になった。
北海道開発局において、道路工事設計基準に区画線の項が登場したのは、昭和42年からで、ここでは「マーキング」という名称で「2車線道路は上下線を必ず中央区分するものとし、追い越し可能な区間は、白色15㎝幅破線、追い越し禁止区間は、白色15㎝幅実績でマーキングする」とある。


昭和44年になると「マーキングはガラスビーズなどの反射材を併用する事が望ましいが、交通量の少ない区間、証明の設置されている市街地、歩道縁石や視線誘導標のある区間の車道外側線、中央分離帯の内部のぬりわけなどは省略できる」と、初めて反射材の使用が規定された。

道路標示の誕生
道路標示の種類と変換